October 30
麻布学園 特別授業 第3回-2時限 10月7日
さて、ポップカルチャーの台頭でございます。家電とかパソコンがちょっとこう下り坂になったところに対して、こうね、こう秋葉原の隙間を埋めるようにポップカルチャーのお店が出るというのは2000年以降の動きです。ラジオ会館は先ほど申しましたようにポップカルチャーの拠点。今コミックマーケット(コミケ)というのが年2回、有明の東京ビックサイトで行われていますが、そこで秋葉原直行便という1000円払うとコスプレのメイドさんと秋葉原へバスで向かえるというものが運行されていてます。このように秋葉原とポップカルチャーの結びつきは強いといえます。このブームはエバンゲリオンから始まっており、これ以降ラジオ会館などでフィギアショップが増えて多様化してきました。
メイドカフェというのはもともとコスプレ喫茶と言っていて、ゲーム少年達がその日の買い物(戦利品)を持ち寄り、オタク談義をする場所として始まり、パソコン専門店がコスプレ喫茶をやったのはT-Zoneのメイリッシュが最初です。”お帰りなさいませご主人様”の決まり文句も、1年半前までは毎日言うと気持ち悪がられるので、毎週火曜日にのみ言われるメッセージであったのですが、その後、マスコミがメイドカフェを取り上げ観光地化してしまった為、毎日使われるようになった。こうした流れは、オタクの人々の場を失わせただけではなく、秋葉原以外にメイドカフェができるようになったため、秋葉原は新分野を模索しなければなりません。
先ほど言いましたが、「電車男」の原作には秋葉原は登場しませんが、映画では秋葉原が印象強く登場しております。これは、バーチャルな(原作がバーチャルなのですが)ものを、リアルに表現するために秋葉原というものを利用しているようです。
そして、”萌え”。皆さんには、ねぇ、わかってるでしょうけど、”萌え”をおじさんに説明するとこういうことです、あるキャラクターの3次元のかたを放棄したから、2次元の世界のキャラクターを愛することを覚えたという定義があるそうです。建築家の森川嘉一郎さんによる「趣都の誕生 萌える都市アキハバラ」(2003)がイタリアで好評であり、NHKの日曜美術館でも紹介され、どのようにして秋葉原のポップカルチャーが形成されているのかを年配の方々も理解してくれるようになりました。
ポップカルチャーは日本の輸出文化であり、韓国では国を挙げてゲームクリエーターの育成(兵役免除を含む)に取り組んでおり、この分野での競合を目論んでいます。
「趣都の誕生 萌える都市アキハバラ」(2003)の表紙
森川嘉一郎さんの
2004年のベネチア・ビエナーレ建築展の日本館展示。
海洋堂のフィギア

コスプレビラ配り
JTBの萌えるるぶ
最後の変化促進要因は、外国人観光とビジットジャパンキャンペーン。秋葉原地域全店あわせると20ヶ国語程度の対応が可能ですし、中には1店舗で13ヶ国語対応を実現している店もあります。現地の周波数、現地の電圧に合わせた電気機器を購入することができ、外国人が買い物をし易いのです。秋葉原のマップも英語・中国語・韓国語の三ヶ国語版を作っています。秋葉原の駅前の商店街に万国旗が出ていますが、それは各国から訪れた人々の売り上げ順で、中国大陸が多く、なぜかアメリカの旗が無いんですね。
秋葉原商品のポジショニングでホビー系は単独使用の傾向がだんだんと共同使用へと移行しています。逆に家電やIT系は共同使用が単独使用へと移行しています。また、IT系や家電系は最初、機能的なものが好まれ、徐々に情緒的な要因が選択を左右するようになりますが、ある時点でイノベーションが起こり、再び機能的なものへの志向が強まります。
そして、時代をリードした秋葉原のお店たち(アキハバラX)
ラジオセンター
ラジオデパート
ソフマップ・シカゴ
石丸電気 Refino&Anhelo (レフィーノ&アネーロ)
高級オーディオ専門店
DutyFreeShop 電気機器だけではなく、刀剣や、北欧家具に合わせたデザインのものなどを販売
フィギアのお店とドールのお店
レンタル・ショーケース
ガチャポン会館 (二階はコスプレショップ)
メイリッシュ
松屋 (どら焼きに自分の書いたイラストを印刷できる)
秋葉原への期待
秋葉原の現在は、エレクトロニクスに関連する歴史の地層が重層化している街で、いまでも真空管や中古オーディオが売られ、ラジオセンターなどの部品街も残っている。
これからは、最先端部分と歴史的部分が共存する、楽しくユニークな街へ。秋葉原では将来の日本を支える最先端のテクノロジーが体験でき、秋葉原は世界と日本がビジネスで連携する登竜門になりたい(西口新興組合・宝田副会長)。外国人と一緒にビジネスをする。
宝田無線
石丸電気 DutyFreeShop
秋葉原のコンセプト
進化する秋葉原の三層構造
再開発ゾーンは駅前が青果市場跡地として空き地であったため、その他のゾーンの立替をせずに開発できた。結果、秋葉原の重層的な性質を保存できた。
環境白書の裏表紙に載ったメイドさんの写真
ツクモROBOT王国
ロボット技術はパソコンの歴史で言えばMS-DOSが出てきた頃のような状態である。これからの注目格。

麻布学園 特別授業 第3回-1時限 10月7日
みなさんこんにちわ。久しぶりに母校にお招きいただき光栄に思います。ただいまご紹介にありましたように昭和43年卒業ですが、当時何があったかというと、まぁ、私は麻布を卒業して早稲田大学 に行ったんですけどね、その翌年昭和44年は安田講堂事件で東大の入学試験は無しで、一浪しても入学試験 は無かったわけです。まぁ今回は古川さんが2回ぐらいやっていらっしゃるということですが、IT業界で言えば麻布学園の大エリートというような方にお誘いを受けて今日お話をすることになりまして本当にありがとうございます。皆さんのお役に立てるようなアカデミックな話になるかどうかはなはだ疑問ですけども、皆さんの将来のヒ ントになるようなことをお話しでき、お役に立てればなぁと考えています。後半は古川さんともども皆さんの質問 を受けるような形で対談したいと思います。
私は麻布を昭和43年(1968年)に卒業して、早稲田大学の電気通信学科に入り電子工学をやりました。その当時はITなどというものは殆ど無く、IBMのシステム370なんて大型コンピュータが登場した時代です。パンチカー ドを打ってプログラムを入力するような時代でした。大学卒業後、ソニーの音響事業部(言い方が古いですけど 、今ならオーディオと言います)で5年間スピーカーを作ってました。当時の秋葉原はオーディオ、ステレオの時代で、父親の会社が松波無線というラジオ屋からスタートした会社なのですが、オイルショックのときに家電販売が低迷し、ラオックスが当時オーディオが強く、父親とラオックスの社長が仲が良かったので会社を合併し、私は、昭和56年からラオックスに行ってパソコン(当時マイコンと言いましたけどね)の事業部長というのをやりました。当時 1981年というのは日本ソフトバンクが創業した年ですし、大塚商会がパソコンマーケットに参入した年でもあり ます。取締役営業部長になってザ・コンピュータ館の店長などもやりました。そのころ、石原都知事が秋葉原に ITセンターを造ろうというような構想が沸き起こってきたころで、私はその秋葉原からの4人の委員の一人となりまして再開発の問題をやりました。それから、秋葉原の観光などをやりまして、現在は社団法人に本コンピュータシステム販売店協会の専務理事を勤めております。
今日お話しするのは秋葉原のお話になるんですけども、まぁ秋葉原の変遷、変化としか言いようの無い街なんで すけど、それから、秋葉原っていったいナンなんだろう、秋葉原の特徴、次に変化促進要因、今日現在こんなこ とが起こっているんだというようなことをお話します。今日は古川さんがいるんで多少ITの話に力を入れたいと思うんですけども、秋葉原はもうITだけでは語れなくなってしまっているので、いろんな話が出てくると思います。
秋葉原の歴史って私に言わせれば高々50年なんですね。最初は電気部品があってラジオがあって、そこからスタ ートですね。当時部品を地方から秋葉原の卸に買いに来て、地方で売りさばくという商売があり、その掛売り卸が行われていたのですが、掛け売りの先がつぶれたりしたので、店頭での現金小売業へ転換し、中央通り沿いに電気小売店が集積しました。私はこれを第1の転換期(1955年頃)と考えています。その後アマチュア無線であったりカラ ーテレビ・冷蔵庫・洗濯機の家電の時代が来るんですが、1973年のオイルショックにより家電販売が後退し、秋葉原は オーディオブームで活性化していきました。ここで、先ほど述べました父親の会社の家電販売が低迷し、オーディオの強かったラオックスとの合併となりました。これ時期がが、第2の転換期です。その後ビデオなどが登場し、80年代 には外国人がDutyFreeShopなどで家電製品を買い求めに来たりしましたが、1993年のバブル崩壊で、中央通りに面したシ ントク電気が倒産、広瀬無線の小売からの撤退、により大きな店が3店舗閉まってしまい、秋葉原はシャッター通りになっちゃったんですね。これが第3の転換期。そのとき裏通りでがんばっていたソフマップが表通りのシ ントクの後に入り、ラオックスのザ・コンピュータ館(1990年より)と競争が激化し、ここではパソコンが安いぞ ということで、秋葉原はパソコンの街へと変貌しました。売り上げも、1994年を境にパソコン(2000億円以上)が 家電(2000億円以下)を凌ぐようになりました。2000年からは郊外店の勢力拡大に伴い、IT・家電ともに売り上げが伸 び悩むなか、アニメ、フィギアなどのポップカルチャーが出てきました。ただ、パソコンだと客単価10万円程度ですが、ポップカルチャーのホビーでは1万円前後となり、秋葉原全体の売り上げは減少傾向にありました。その中で、2005年には秋葉原再開発の 二つの大きなビルと、つくばエクスプレス開通、ヨドバシカメラ開店を向かえ、秋葉原は第4の転換期を迎えて います。
秋葉原にこの1年以内に行ったことがある人は手を上げて。(殆どの手が上がる)。この写真は今の中央通りですね。 駅前から中央通りを見た写真。
そして、こちらは昭和32年の同じ位置からの写真。広瀬無線さんは戦前からあ るのでビルになっていますが、殆どが二階建てで”三丁目の夕日”状態ですよね。で、ここに積んである物は全部真空管で、オート三輪があったり、マツダランプ、マツダ蛍光灯などもありますね。
こちらが、松波無線の第一号店の写真で、この二階では電機大学の学生さんが真空管ラジオを組み立て、その日に作ったラジオがその日のうちに売れました。
次は、中央通りから秋葉原でパートを写した写真。
これと同じアングルで今日現在を撮るとこうなります。外壁はあまり変わっていませんね。現在もパーツ屋さんは昔と変わらない間口でやってます。この部品屋さんのそもそもというのはですね、須田町あたりでラジオを組み立てて売っていた露天商をGHQがこちらに集積し たのが始まりです。これがラジオセンターとして今日現在も残っているということです。そろそろ老朽化してきているので、立替とかそういう問題も発生してきております。
ついでに言いますと、松波無線第一号店のあとは 1966年から”古炉茶(コロナ)”という喫茶店になっておりまして、コーヒーは高いけれども静かで落ち着けると いうことで、これは少し余談で宣伝になりますけれども。

さて、第二の秋葉原の特徴になりますが、秋葉原というのはベンチャー精神が旺盛でございます。表通りは面白くないけれども裏通りからニュービジネスが起きてきます。それに猥雑ですが新しい発見の楽しみがある、宝探しの街です。また、郊外の店舗に行ってしまい、価格競争になってしまった商品は家電にしろパソコンにしろ秋葉原の主流商品としては戻ってきません。秋葉原は常に新分野開拓によって、最先端の商品を取り扱う街、したたかに生き残っていく街といえるでしょう。
秋葉原を語る上でのキーワードは”インドア”のホビーといえるのではないでしょうか。また、”D.I.Y.”、部品を売っているところが秋葉原の特徴でしょう。IT少年達は秋葉原の裏通りで安くパソコンを作るために部品を買って組み立てる。ラジオ会館ではフィギアをパーツで売っています。 で、秋葉原に来るお客さんは”プロシューマー”(オタク)で、プロの目を持っている専門家であり、店の側は常に”最先端”の商品を提供し続けなければならない街で、ディープな専門店がたくさんありますね。最後に”重層化”というのは、昔から真空管を売っている店や、オーディオを売っている店が、今も残っており、さらに、時代に即した多様な専門店が立ち並んでいるということです。
えーっと、これはラオックスのアソビットシティ1番館で、フィギアとコスプレが並んでいます。ちょっと余談になりますが、歌舞伎町系のコスプレと秋葉原のコスプレの違いは、セーラー服とセーラー・ムーンの違いであります。つまり、アニメキャラクターの衣装であるということです。銀河鉄道999の船長さんの服装などを売ってるわけですね。(....)
さて、秋葉原の5つの変化促進要因についてみてゆきましょう。

先ず一つ目、クロスフィールド。 こういうビルが建ってます。左側がダイビルといいまして右側がUDXといいます。ダイビルの上半分は日立さんが入っていて、下半分は産学協同事業です。UDXは5階以上がオフィスになっており、4階はちょっと面白い東京アニメセンター、先端ナレッジセンター、デザインミュージアム(11月22日より)などがあり、その下の階は飲食店が入っています。この二つのビルで1万人ぐらいの方が働いてらっしゃって、3万人ぐらいの方が訪問しています。ここは2000年に石原都知事が視察された際に鶴の一声で決定され、2005年に完成しました。中央通りから見た写真から、非常にでかいことが分かると思います。
次の二番目の要因のつくばエクスプレスとヨドバシカメラね。つくばエクスプレスによって今まで来なかった茨城方面のお客も秋葉原に来るようになりました。ヨドバシカメラは開店から4日間で100万人を集客しました。これらに加えて「電車男」のヒットによって若い女性の来街客が増加しました。ヨドバシカメラが黒船だという人もいますが、私は、商店街にスーパーがやって来て、リアルなお客さんを街に呼び込んでくれているといっています。商店街は専門店化することでスーパーのヨドバシカメラと共生を図ればよいといっているのですが、言うは易し行なうは難しです。秋葉原の競合は集客をする量販店ではなく、インターネット通販でしょう。さて、これらの要因によって来街客は40%(10万人が14万人へ)アップしました。最後に、「電車男」の原作本の中には秋葉原は出てきません。


第三番目のパソコンのコモディティ化についてみてゆきます。秋葉原のパソコン街の歴史は1976年にラジオ会館7階にNECビットインができたことから始まります。ボードマイコンTK-80を売り始めたのです。次は、1990年4月のラオックス・ザ・コンピュータ館の開店です。そのころマスコミは、秋葉原の裏通りにこんなでかいコンピュータの店を作っても売れるわけがないと言ってました。まぁ確かに1年目2年目は閑古鳥、3年目以降は売り上げをどーんと伸ばしました。同じ時期、ラオックスの他の店舗はバブル崩壊によって売り上げを落としていました。1995年にはWindows95が出るわけですが、当時この古川さんからね深夜営業せいといわれまして、深夜発売、秋葉原の寒い11月ぐらいでしたかなぁ、午前0時にクスダマ割って、2万人くらい来たんじゃないですかなぁ、万世橋警察真っ青でした。この頃からインターネットが普及を開始し、個々人が横につながるようになって行き、主役がインターネットになって行きました。97年には消費税が3%から5%になったため売り上げが落ちSofmapやT-Zoneの創業者達が退場しましたが、98年にはWindows98とiMacの発売により持ち直し、2000年まで老若男女がパソコンを求めに秋葉原に出向いてきました。ただ、99年にiModeが登場し、これはパソコンで言えばWindows95の発売と同様のインパクトをケータイ市場拡大に及ぼしました。その後ビックカメラが01年に有楽町店を開店し、秋葉原のお客が減少した後に、05年にはヨドバシカメラが秋葉原に開店し再び秋葉原の集客力がアップしてきたという現状です。
パソコンの状況を見てゆくと、それまでiMacを購入してくれた女性客層がiModeの登場により、ケータイで用が足りるようになりパソコンを購入しなくなりました。また、郊外店やインターネット通販との競合で秋葉原でのパソコンの売り上げが落ちています。さらに言えば、インターネットもコモディティ化し専門性が薄れることによって、秋葉原にまで来て専門性を求めるお客がいなくなってきました。
さて、これがオタ通りの写真ですね。休日にはジャンク屋の露天が立ち並びます。ラオックスで中古パソコンを扱っていたときに、お客さんにこれ動くかどうか分かりませんよといったところ、”動くか動かないかは俺が決める”といった方がおられ、専門性を持ったオタクの街を象徴しています。

次はラオックス・ザ・コンピュータ館ですね。ここの特徴のひとつとして、この書籍売り場がありました。このお店が開店した当初、このようなパソコン専門書を取り揃える店舗はありませんでした。この売り場ではリーナス・トーバルズ(リナックスの作者)の伝記がベストセラーになったこともあり、いかにマニアが来ているかの証でもあります。
そてこれもオタ通り。このチチブデンキって知ってます? そう、おでん缶。一時、渋谷の東急ハンズでも売っていたみたい(一ヶ月間)だけど今はもうありません。これは、かつて秋葉原に食べ物屋が少なかった頃(バブルの頃、各店はこぞって販売店舗を増やしたため)、マニアの為の食べ物として登場したものです。マニアの方は時間を惜しんでお店周りをしたいので、こうしたものが受けたのでしょう。でも、再開発により、この1年でレストランは70店舗増加し、おでん缶の販売機の前は携帯電話で記念写真をとる人でいっぱいです。最近の秋葉原の名物はメイドカフェとおでん缶になっちゃってるんですね。
(ここで1時限終了。10分間の休憩)